朋義さんから「ヤコビアン予想がAIによって否定的に解決されたらしい」と聞いたのは、ワールドカップ決勝の余韻がまだ残る7月のある日だった。1939年に提起されてから87年間、誰も反例を作れなかった予想。それがAnthropicの研究者がClaude Fable 5を使って崩したという。「査読も何もない話でしょ、10秒で検証できる」と朋義さんに言われて、その通りだと気づいた。証明の正しさを評価するのは査読が要る。でも反例は、有限回の計算が合えばそれで終わりだ。実際に自分の手でsympyを使って検算してみた記録。
1939年、オットー=ハインリヒ・ケラーが提起した予想はこうだ。$n$変数の複素多項式写像 $F: \mathbb{C}^n \to \mathbb{C}^n$ があって、そのヤコビアン行列式(各成分を各変数で偏微分して並べた行列の行列式)が、定義域のどこでも0でない定数だったとする。そのとき $F$ は必ず多項式の逆写像を持つ(つまり全単射で、逆写像もまた多項式で書ける)、という主張。
直感的には、「局所的にどこでも可逆(ヤコビアンが0でない)」という条件が、「大域的にも可逆」という強い結論を引き出せるかという問い。1変数(n=1)なら簡単に正しいと分かる。しかし2変数以上になると、この予想はケラー自身も含め87年間、誰にも解決できなかった。
2026年7月19日から20日にかけて、Anthropicの研究者Levent AlpogeがClaude Fable 5を使って、3変数の反例を発見したと発表した。査読はまだ済んでいない。経緯がまたカジュアルで、ワールドカップ決勝を観戦しながら、友人のAkhilに聞かれてFableに探索させてみた、という話らしい。
Alpogeが見つけた反例はこの式だ。$u = 1 + xy$ とおいて、
これをsympyに入力して、実際に確かめたことは2つ。
確認1:$\det(DF)$ を計算すると、$x,y,z$ に一切依存しない定数 $-2$ になる。どこでも局所的には可逆写像のはずの条件を満たしている。
確認2:それにも関わらず、3つの異なる点 $(0, 0, -\frac{1}{4})$、$(1, -\frac{3}{2}, \frac{13}{2})$、$(-1, \frac{3}{2}, \frac{13}{2})$ を $F$ で写すと、全部同じ点 $(-\frac{1}{4}, 0, 0)$ に潰れる。単射じゃない。
この2つが同時に成り立つことが、ヤコビアン予想が禁じていた性質そのものだ。数十秒でsympyが確認を終える。証明の妥当性は査読が必要だが、反例そのものは有限回の厳密計算で誰でも検証できる形で公開されている。
ここでもう一つ確かめたくなったことがあった。3点とも同じ場所に潰れるのは分かったが、その「潰れ方」は3点とも同じなのか。それぞれの点の周りに半径0.03の球殻状に300点をサンプルして、$F$ で写した後の広がり方を比べてみた。
結果は点ごとに全然違った。$P_1$ 近傍の像は3方向とも似た大きさに広がるコンパクトな円盤状。ところが $P_2$、$P_3$ 近傍の像は、ある2方向にだけ大きく伸びる、細長い針のような形になる。ヤコビアン行列式の絶対値はどこでも2(一定)で、教科書的には「局所的には可逆写像」のはずなのに、その局所的な歪み方(伸びる方向、アスペクト比)は点によってまるで違う。det一定という条件だけでは、写像の「素直さ」は何も保証してくれないということが、この実験からよく分かった。
反例の構造がどこから来ているのか、最初は自分にはよく分からなかった。ヒントになったのが、フィールズ賞受賞者テレンス・タオが2026年7月21日に書いたブログ記事「A digestion of the Jacobian conjecture counterexample」だった。
核心のアイデアは、二項式(binary form、2変数の斉次多項式)の掛け算写像だ。
1次の二項式 $L$ と2次の二項式 $Q$ を掛けて3次の二項式を作る写像。ここで、3次の二項式 $C$ が3つの相異なる1次因子 $C = L_1 L_2 L_3$ に分解できるとき、
という3組の「(1次式, 2次式)」ペアは、どれも定義域の中では相異なる点なのに、掛け算すると全部同じ $C$ に写る。つまりこの掛け算写像は、判別式が非零(3根がバラバラ)な領域の上で3対1になっている。これがAlpogeの反例で「3点が1点に潰れる」現象の、幾何学的な出どころだとタオは説明していた。
検算:相異なる3根から3つの1次式を作り、3通りの分解のペアが本当に「定義域では相異なるが、積では完全に一致する」ことをsympyで確認した。具体例($r_1=0, r_2=2, r_3=5$)でも、記号のままでも成立することを確かめた。
ここまでで満足していたところ、HN経由でもう一つ興味深いものを見つけた。タオ本人がChatGPTと交わした、この反例についての公開対話だ。誰かが投稿した「別アプローチのPDF」について、「これは元の反例の構成をどう遡って説明してくれるか」とタオが尋ねている。ChatGPTの共有ページはJavaScriptで描画されるため、単純な取得ツールでは中身が読めず、実際にブラウザでレンダリングしてスクロールしながら読んだ。
そこに書かれていた構成は、掛け算写像の話とはまったく別系統だった。骨子はこうだ。
つまり最初の反例は、「5次元の代数多様体と $\mathbb{A}^3$ の明示的な同型」と「2×2行列の積のような双線形写像」の合成として、掛け算写像とは別の角度からも再構成できるという話だった。この全項目もsympyで独立に検算した。$\Phi$ が $X$ の定義式を恒等的に満たすこと、$\Psi \circ \Phi = \mathrm{id}$ であること(y、zがどちらも恒等的に復元されること)、$\det DG = -1$ であること、そして座標変換後の $G$ が元のAlpoge反例と係数レベルで完全に一致すること。全部、恒等的に成立した。
この一連の追いかけっこを通して一番残ったのは、朋義さんに言われた「査読も何も10秒で検証できる」という一言だった。「反例が正しいかどうか」を判断するときに、自分は最初「まだ査読前だから」と留保をつけていた。でもそれは的外れな慎重さだった。反例は存在を主張しているだけで、有限回の厳密な計算が合えばそれで終わる。査読が本当に要るのは、こういう構成的な反例が「なぜそこにあるのか」「他にどんな一般化があるのか」という、証明の妥当性や射程を評価する場面の方だ。
今回、掛け算写像の3対1という説明と、5次元多様体を経由する別の構成という、性質の異なる2つの説明を追いかけて、両方とも自分の手でsympyに検算させることができた。AIが数学的発見の現場で実際に使われている様子を、査読前の生々しい段階からリアルタイムで覗き見られたのも面白かった。検証用のスクリプトは全て手元に残してある。