血より先に、分類が怖い
吸血鬼という言葉を聞くと、首筋、牙、黒いマント、夜の城が先に出てくる。 でも『吸血鬼幻想』の序盤は、その完成した映画的な像へすぐには向かわない。 そこにいるのは、墓の中で屍衣を噛む死者、腐らない身体、狼人や夢魔と混ざる夜のもの、流行病のあとに名指される遺骸、あるいは死んだと思われて埋葬された生者かもしれないものだ。
つまり吸血鬼は、はじめから一つの怪物ではない。 死者をどこへ置くか、何として読むか、どの制度で処理するかが揺れた場所に出る。 墓は死者を共同体から切り離す装置のはずなのに、吸血鬼の話では、その装置がうまく閉じない。 埋めたはずのものが、腐らない。食べる。首をしめる。食事を求める。家への道をまだ覚えている。
ここで怖いのは、死者が生者を襲うことだけではない。 もっと根本には、死者を死者として扱う棚が壊れる怖さがある。
同じ身体が、聖者にも吸血鬼にもなる
読んでいていちばん強く引っかかったのは、腐敗しない身体の意味が一つに決まらないことだった。 ある文脈では、それは破門された者、異端者、悪しき死者の印になる。 別の文脈では、腐敗しない遺骸は聖性や永遠の美の印になる。 身体状態は同じなのに、読み方だけが反転する。
ここで吸血鬼は医学的現象そのものではなくなる。 土壌や寒さや乾燥によって腐敗が遅れることは、ひとつの説明になる。 しかしその身体を見た共同体が、それを聖者の徴と読むのか、異端の徴と読むのか、まだ帰ってくる死者と読むのかは、別の問題だ。 死体は生理学の対象であると同時に、制度が読むテキストでもある。
病理
流行病、肺病、呼吸困難、睡眠中の圧迫感。見えない原因が夜の像を呼ぶ。
埋葬
仮死、早すぎた埋葬、腐敗の遅れ。墓は境界であり、誤作動する装置でもある。
制度
教会、医学、啓蒙思想、地方共同体。それぞれが死者へ別のラベルを貼る。
噂
恐怖は原因にも伝播路にもなる。吸血鬼は血だけでなく、説明の空白を吸う。
啓蒙は、吸血鬼を消しただけではない
十八世紀の吸血鬼論争も面白い。 啓蒙思想は迷信を照らし、吸血鬼を退治した。 そう言えば筋は通る。 けれど、読んでいると少し違って見える。 啓蒙は吸血鬼を消しただけではなく、吸血鬼を「迷信」として発見した。
中東部ヨーロッパやバルカンのローカルな死者騒ぎが、報告書、医学的検討、神学的議論、新聞的な話題へ変わる。 その過程で、吸血鬼は現地の恐怖から西欧の知識対象へ移される。 名称が固定され、文献化され、やがて小説や詩や映画の素材になる。 闇は消えたというより、照らされ、分類され、別の媒体へ移された。
しかも教会と合理主義者の関係は単純ではない。 正統教会は、死者が悪魔や魔術の力で蘇ることを認めたくない。 合理主義者は、そもそも魔術を認めたくない。 目的は違うのに、土俗的な魔術を否認する場面では、両者は一時的に同じ方向を見る。 吸血鬼は、宗教と科学の敵対だけでなく、両者の奇妙な共同戦線も見せる。
予防法は、死者の帰路を断つUIである
吸血鬼予防法を読んでいると、そこにはひとつのインターフェイスがある。 口を塞ぐ。名前を剥がす。棺をどの向きで運び出すか決める。 死者が家への道を覚えないようにする。 墓に網や種を入れ、死者の注意を数える作業へ縛る。 これは死者を力で押さえるだけではない。 死者の認知、動線、記憶、欲望を別の向きへ曲げる作法でもある。
僕はこの数日、Gardenの歩行可能性や、料理の時間レイヤーや、街路と太陽の角度を地図として見ていた。 吸血鬼予防法は、それらとはまったく違う暗さを持っている。 でも「戻ってくる道をどう切るか」「どの境界を越えさせないか」という意味では、やはり経路設計の一種に見える。 生者のための歩行地図ではなく、死者に帰路を思い出させないための逆向きの地図だ。
戻ってきたものは、本当に死者なのか
早すぎた埋葬の話は、吸血鬼像をさらに反転させる。 墓から血まみれで戻ってきた者は、死者ではなく、生きていたのに死者として処理された人かもしれない。 その場合、共同体が恐れているのは死者の復活ではない。 自分たちの分類が間違っていたことだ。
それでも人は、戻ってきたものを吸血鬼として処理してしまうかもしれない。 そこには二重の恐怖がある。 死者が戻ってくる恐怖。 そして、戻ってきた生者を死者としてもう一度殺してしまう恐怖。 吸血鬼は、その二つの恐怖の間に立っている。
『吸血鬼幻想』の序盤だけでも、吸血鬼はひとつの怪物から、死体を読む制度、病を読む想像力、啓蒙が作る文献、帰路を断つ儀礼へ広がっていく。 牙よりも先に分類があり、血よりも先に棚がある。 その棚が少しずれた夜、死者はまだ帰ってくる。