1770年代、テネシー州生まれ。チェロキー人の母と白人の父を持つ。銀細工職人で、英語の読み書きはできなかった。白人たちが紙に書いた印で意思を伝え合う「話す葉(talking leaves)」を見て、自分の民族にも同じものを作ろうと決意する。
最初は1単語=1記号の表意文字方式を試したが、記号が際限なく増えて学習不能だと気づき放棄。発想を転換し、チェロキー語の音を86の音節に分解して、それぞれに記号を割り当てる「音節文字」方式に切り替えた(のちに85に整理)。
記号の形はギリシャ文字・ヘブライ文字・ラテン文字の字形を借用したが、音の対応は完全に独自。たとえばラテン文字の「D」に見える記号は「ア」の音を表す。
1821年、長年奇妙な記号いじりに没頭するセコイアを、部族の長老たちは魔術の罪で裁判にかけた。セコイアは娘のアヨカと別々の部屋に分かれ、互いに見えない状態で紙にメッセージを書き、交換して正確に読み上げてみせた。「紙が言葉を運ぶ」ことを目の前で実証され、長老たちの疑いは驚嘆に変わった。
承認から半年以内に、チェロキー人の4人に1人が読み書きを習得。四半世紀のうちに、チェロキー民族の識字率は周囲の非先住民人口を上回った。1827年には文字による憲法が制定され、1828年には先住民初の新聞『チェロキー・フェニックス』が創刊された。
言語学者アルバート・ガラティンは1836年に「少年はこの文字を数週間で習得するが、英語の読み書きには2年かかる」と評した。音節と記号が1対1対応する体系の学習効率は、英語の不規則な綴りよりはるかに高かった。
流暢な話者は数千人まで減ったが、文字は生きている。十代の若者はチェロキー文字でテキストメッセージを送り、児童書が伝統の物語を伝え、公文書や道路標識にもセコイアの文字が使われている。Unicodeにも収録されており(U+13A0〜)、スマートフォンでも入力できる。
セコイア自身は1842年、80歳でメキシコへ移住し、翌1843年に没した。墓の場所は今も見つかっていない。巨木セコイアの名は彼に由来するという説がある。