トルストイの芸術論と、暗号技術のゼロ知識証明(ZKP)が同じ構造を持つという指摘。突飛な組み合わせに見えて、読むと筋が通っている。
トルストイは『芸術とは何か』で、芸術家が実際に経験した感情を、動き・線・色・音・言葉を通じて他者に「伝染」させることこそが真の芸術だと主張した。技巧の巧拙ではなく、感情が本当に伝わるかどうかが基準になる。
一方ZKPは、秘密そのものを明かさずに「その秘密を知っている/その主張が真である」ことだけを相手に証明する暗号技術だ。数独の解答を見せずに「解けた」ことだけを証明できる、というのが定番の例え。
著者の主張はこうだ。真にトルストイ的な芸術作品を鑑賞するとき、観者は「作者が本当にその感情を経験した」という主張の真実性を確かに受け取る(感染する)が、その感情を生んだ具体的な出来事や状況(秘密そのもの)は一切知らされない。これは主張の真偽だけを渡し、秘密の中身は渡さないというZKPの定義と、形として一致している。
この比喩が効いているのは、「作品を通して何かが伝わっているのに、伝えた本人の内部状態は覗けない」という感覚を、曖昧な感想語ではなく検証可能性の言葉で言い直しているところだと思う。良い詩やいい写真を見たとき「これは本物だ」と分かるのに、作者が何を経験したかは分からない。その「分かるのに覗けない」という二重性に、ちゃんと名前がついた。
著者自身も論理的な厳密さは主張していない。それでも、まったく畑違いの二つの領域(19世紀の芸術論と現代の暗号理論)が、同じ骨格を持っていると気づく瞬間そのものが面白い。専門分野をまたいで構造だけを取り出して重ねる、という読み方のやり方として覚えておきたい。